CLOWN CAMP Yearly Hightlights  クラウンキャンプの歴史

Yearly Highlights
1980~   1985~    1990~   1995~    2000~   2005~
≪クラウンキャンプの歴史について≫

以下の歴史の物語は、Clown Campのインストラクターや参加者が提供してくれた多記事、手紙、詩、物語の情報がもとになっています。各々にイタリックで書いてあるのは、ライターの名前とそのホームタウン、州、国です。

1980年に、ウイスコンシン大学ラクロス・クラウンキャンプ は、クラウンの授業の延長として始まりました。 リチャード・スノーバーグ医学博士はクラウンの夜間クラスを地域の大人にも教え始めました。このクラスのことが「スリー・リング・ニュース」という 中西部のクラウン新聞に取り上げられました。その結果、成人教育のオフィスには、ラクロス以外の地域からも参加可能な1週間の集中プログラムのリクエストが殺到しました。 当時、卒業単位に含まれない夏だけに実施するものは全てサマーキャンプと呼ばれていましたが、こうしてクラウンキャンプという名前が誕生したのです。

1981年にクラウンキャンプは35人の参加者でスタートしました。 デトロイトやカンザスシティーなど開催地からはとても遠い地域からも参加者がやって来た、 かつてないエキサイティングな出来事でした。 その最初の年のインストラクターは、「バディー(ウォーレン・ボルター)、「ピー・ウィー(ベティー・キャッシュ)」、「従兄弟のオットー(ゲン・リー)」、 「ブリンキー(ブルース・ネルソン)」、「スノーフレーク(リチャード・スノーバーグ)」、「ビンゴ(マイケル・オーシャフネッシー)」でした。参加者はコート ・ホールと呼ばれ」ている寄宿舎に泊まり、授業はその地下室で行われました。 最初のキャンプ・ストアは、そのテレビ・ラウンジでオープンしました。最初の参加者で後にスタッフになったのは、トム・コリン、アル・ファスト、ポール・グラロス、 デビッド・ハイム、キム・マクレイ、ドロシー・ミラーです。ウォークアラウンドのコンペティションは、ラクロス・バレービュー・モールで行われました。 参加者は実際のショッピングモールでのパフォーマンスを一般のお客さんに審査されたわけです。

大学側はクラウンキャンプはそのとき限り1回だけで、それが続いていくとは思っていなかったたようです。 しかし、1981年のそのプログラムの最後には、参加者は皆、家に帰りたくないと思い、また、次の年も必ず戻ってきたいと願っていました。ということで、翌年の1982年のプログラムの計画が始まったのです。 このプログラムは50人の参加者を迎えました。それが、1983年には80人になり、1984年には参加者は100名を越えていました。

初期の頃は似たようなプログラムは他になく、ただひとつの例外がRingling Bros. Clown Collegeで入学できるのはごく少人数に限られていました。また、入学できた場合でも技術を修得した後はショーの契約をして、大きなショーのツアーに出ることに同意しなければなりませんでした。


クラウン・コンベンションでは、コンペティションと地域イベント、クラウングッズの販売という構成が常で、教育プログラムは非常に規模の小さいものでした。1980年代の初期は、3~4のレクチャーがあるというだけだったのでクラウンキャンプのシステムは画期的なことだったのです。
クラウン協会が教育プログラムに参加者を増やすときは、たいてい多くの場合はコマーシャル目的か、クラスを教えることで参加費をタダか割引にしたいボランティアがクラスを教えたがったか、のいずれかでした。(このようなケースは現在でもよく見受けられます)。また、この教育システムこそが、よそのレクチャーとクラウンキャンプが提供している内容とが比較にならない理由なのです。

1982年 アル・ファスト、ポール・グラロス、ジェフ・マクマレン、アール・チャニー が最初のスタッフでした。 授業は宿泊棟だけではなく、ノース・ホールでも行われました。キャンプ・ストアもノース・ホールで、毎朝スタッフがひとり担当していました。した。

毎回参加者の前に姿を現す前に、メイクをしてから講義やパフォーマンスをはじめました。 参加者も一緒にインストラクターとジョークをいったりメイクをしたりしました。授業中にみんなで居眠りの振りをしたり・・・。

1983年 デビッド・ジン、スティーブ・スミスが初めてスタッフとして来ました。 9つのプロジェクターでショーを紹介。 ホームルームのような小さなグループとしてクラウン・アレーが設置される。当時79歳の「トゥインクルトウズ(ルース・ウインバード)」がはじめてやって来ました。(彼女は90歳の時に、15周年祝賀週間にも参加しました) クラウンキャンプは、カリビアン・クラウン・クルーズを実施。ウオーレン・ボルターとリチャード・スノーバーグがインストラクターを務め、クラウン・キャンプ公認フォトグラファーとしてはじめてロジャー・グラントが参加しました。

1983後半、ラウンキャンプは、SS.ノルウェイでカリビアン・クラウン・クルーズを実施。ウオーレン・ボルターとリチャード・スノーバーグがインストラクターを務め、クラウン・キャンプ公認フォトグラファーとしてはじめてロジャー・グラントがこのクルーズから参加しました。クルーズのエンテーテイナーが、クラウンたちに特別レクチャーを実施ししました。

1984年 バリー・デチャント、レオン・マクブライド、キム・マクレイ、ボブ・ギブソン、キャシー・ギブソンがインストラクターとして参加。

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1985年には、1985年 デビッド・ハイム、ジェイ・チュオッカ、ドロシー・ミラー、ジャネット・タッカーがインストラクターとして参加。クラウンキャンプ は、1週間を2回やるようになりました。 第2週は、1日の半分はスティーブ・スミスが教えるワークショップでした。(訳者注-スティーブ・スミスは、リングリングブラザーズサーカス・クラウンカレッジの校長を務めたクラウンで、自身のパフォーマンスはもちろん、インストラクターとしてもトップレベルのクラウン) クラウンキャンプ・スタッフとその参加者は、ウエスト・セーレムでの「ジューン・デイリー・デイズ・フェスティバル」に初めて参加しました。

1980年代半ば、300人以上の人が参加するようになって、さらにキャンプの参加希望者が急上昇し始めた時に、この夏のプログラムを1週間以上やろうと決意しました。同様に、大学側では、キャンプ・インストラクターのレベルが高いのでそれににあわせて講師料を上げようという動きが始まりました。1986年にルー・ジェイコブスがクラウンキャンプに来たとき、1日 $1000が支払われ、これは彼が一日のギャラとしてもらった金額では過去最高の金額でした。 (※訳者注)ルー・ジェイコブスはアメリカで切手にもなったクラウンで、知らない人はいないほどアメリカ・クラウン史でも最高峰のクラウンです。)

1986年 オーウェン・アンダーソン、ドン&ディー・ブルーダ、マーク・アンソニーがスタッフとして初めて参加。新しくクラウンをはじめる人のためのプレ・キャンプが実施されました。バリー・デチャントは、出来る限り汚いメイクをして、メイクのセッションで歩き回りました。残りのスタッフが改善点を彼に要領よく伝えられるように彼はそのそばに立っていました。また、マーク・アンソニーはプロップの象を作るところを参加者に観察させました。(訳者注-マーク・アンソニーは、アメリカでルー・ジェイコブスと並んで賞賛されるクラウン) 「ボー・ディーノ(ダン・ウェイス)」は、スタッフとして参加することが予定されていましたが、直前に自動車事故で亡くなりました。彼の未亡人が彼の小道具をオークションにを寄付してくれたことから、ワールド・クラウン・アソシエイション「ボー・ディーノ奨学制度」がスタートしたのです。

オープニングセッションは、マーク・アンソニー、アル・ファスト、キム・マクレイ、レオン・マクブライドをはじめとしたスタッフ達のウォーキング・アラウンド・ギャグのデモンストレーションで始まりました。ディビッド・ジンは、ディスカウント・ショップで手に入れたピンクドレスを着て、新婚ホヤホヤの「アール・チャニー」というキャラクターでパフォーマンスしました。このドレスはオークションに出品され、リチャード・スノーバーグがそれを着てモデルを務めました。それは毎年出品され、毎回違うスタッフメンバーがモデルになりました。 その数年を通じて、このピンクドレスでチャリティーのために何千ドルが集められたのです。
また、ディビッド・ジンをフューチャーして、キャンプの後にカヌーの小旅行が企画されました。クラウンキャンプに続いて、第1回ラフ・メーカー会議がウィスコンシン大学ラクロス校で開催されました。ブルース・ジョンソンが初めて大学で教えました。


最初のクラウンキャンプを他の地域でも開催したのは、カリフォルニア州のサンディエゴで、ホストはドン・ゴンザレスでした。プログラムの期間はは金曜の夕方から日曜の正午まで。リチャード・スノーバーグ、レオン・マクブライド、ディビッド・ジンがインストラクターを務めました。この最初のプログラムの後、このような週末セミナーがその後10年にわたって北アメリカ中で多く開催されました。

1987年 ジム・ホール、トリシア・マヌエル・ボザン、ルー・ジェイコブス、マイケル・ポォロコフがスタッフ。 もとリングリングサーカスのクラウンで、クラウン名誉殿堂入りしているそうそう足るメンバーのマーク・アンソニー、ルー・ジェイコブス、マイケル・ポォロコフが、彼らのメイクアップがどのようにして出来ていったのか、また、全部足すと200年にもなる彼らの経験を話してくれました。最初の海外からのスタッフとしてシャルロッタ・ペイトンがイタリアから来ました。レオン・マクブライドとバリー・デチャントがクラウンキャンプのアシスタント・ディレクターになりました。

奨学金のためのウィッシュランド・ポニー・エクスプレスが組織されました。
その初期の資金調達の大部分はクラウンキャンプからです。次の7年で、15,000ドル以上がクラウンキャンプ参加者によるオークションとシャツやIDの売上によって寄付されました。
クラウンキャンプのスタッフ・メンバー、ボブ・ミリッシュとリチャード・スノーバーグは、委員会の小児科医、医学の教育者、ソーシャル・ワーカー、看護婦たちとともに、その活動のディレクターとしての活動を始めました。

1988年 アーサー・ペドラー、トレボル・ファーロ、アンドリュー・スティーブンスが、はじめてイギリスから参加。 その他、ボーラ・ビジオー、テリー・デボルト、アイリーン・ドール、ボブ・ミリッシュが初参加。マーク・アンソニー、ルー・ジェイコブスがまたスタッフとして来ました。 ジム・ホールは、クラウンキャンプで教えたインストラクターへの尊敬をこめて「赤い鼻の哲学者シリーズ」の最初の3枚の肖像画を発表しました。 クラウンキャンプ参加者が選んだ最初の3人は、リチャード・スノーバーグ、バリー・デチャント、パトリシア・マヌエル・ボーサム。そのプリントはプロフィール付きで売られました。

1989年 ケニー・アハーン、ブレンダ・ジョンソン・アハーン、ホール・スペイトがリングリングサーカスからクラウンキャンプ・スタッフになりました。また、カレン・ホイヤー、ランディー・マンソン、ペギー・ウイリアムスがスタッフとして初参加。 ジム・ホールは、ドン・ブルーダ、ドロシー・ミラー、アーサー・ペドラーを「赤い鼻の哲学者シリーズ」に加えました。

クラウンキャンプとクラウン名誉殿堂がともに国際クラウン会議を主催。 約60名のクラウンが各国から参加、スコットランドに1週間滞在してクラウンの将来と社会参加・貢献、成長について話し合いました。 サミットに伴い、参加者はイギリスを観光したり、エジンバラ、サウスポート、ロンドンでショーを行いました。

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1990年 クラウンキャンプ10周年。ボニー・ドナルドソン、ブルース・ジョンソン、デール&マリオン・ランディス、アン・レスキー、ビル・ローゾン、マリー・ベス・マーティン、ビンス・パギリアーノ、ニッキー・ウィルソンがスタッフとして初参加。数回のセッションが6月に、もう1週は8月に実施されました。 クラウンキャンプで行われた「クラウン名誉殿堂の夕べ」においてブルース・ジョンソンが古典的な放浪者キャラクターのクラウンののショーをしました。 バリー・デチャントがそのバックボーンとなる歴史の朗読で声の出演をし、ブルースが有名なトランプ・クラウンのルーティーンの再現を演じました。(訳者注-トランプというのは代表的なクラウン・キャラクターのひとつで浮浪者のスタイルをとるものです。)また、ブルース・ジョンソンによるそれぞれのクラウンのイラストもスライドで上映されました。 ジム・ホールは、ジム・ホールとスティーブ・スミスを「赤い鼻の哲学者シリーズ」に加えました。

マーク・アンソニーが亡くなりました。 クラウンキャンプの8月のセッションでは、そのマークの業績を称える追悼セレモニーが行われました。マークの遺言で、 袋詰めにされたおもちゃとヘリウムの風船が、献花のかわりに奉げられ、セレモニーの後、これらのアイテムは病院に入院している子供達に配布されました。

1991年 ジャック・アンダーソン、トム&マリアンナ・マイヤーズ、ジャック&パット・フランク、リンダ・ヒューレット、アリーナ・イサクソン、グレン・フロスティー・リトル、ディビッド・ミッチェル、リー・マラリー、マルセラ・ムラード、ディーナ・ピライーノがスタッフとして初参加。1週間のプログラムを4回実施。そして、参加した25人のスタッフがもう一週やりました。ストュー・ロバートショー、ユーモア・インペア協会からドクター・ユーモアを送られた、 ストュー・ロバートショーがそれぞれの週にプレゼンテーションをし、毎日3時限ある 1週間コースがあてられました。ジム・ホールは、ブルース・ジョンソンとアイリーン・ドールを「赤い鼻の哲学者シリーズ」に追加。

1992年 ブレンダ・マーシャルとホセ・リベラがスタッフとして初参加。レオン・マクブライドは自身のプロジェクトのためにクラウンキャンプを去りました。 アイリーン・ドールがバリー・デチャントとともにアシスタント・ディレクターに就任。南アフリカからのクラウン、ピエ・ノーティエが4週を通して参加。 初めてニュージーランドとオーストラリアからの参加者が来ました。アイオワのシーダー・ラピッドからクリス・モントロスが初参加。オープンマイクのときに、彼女は自作の詩「クラウンキャンプ1992に思う.」を読みました。 また、セレモニーの終わりには彼女が自分で作曲した2曲のコーラスに加わりました。1曲のタイトルは「クラウンは神様のお使い」でした。早朝と夜のセッションはスタッフメンバーに出会える時間でした。この時間はパフォーマンスを見たり、質問をしたり、またそれに答えてもらう時間 でした。ジム・ホールは「赤い鼻の哲学者シリーズ」にケニー・アハーンを加えました。

私は、『スタッフ・オン・ステージ』のメイクアップ・セッションに参加しました。私はジム(Howle)のメイクをして、ジムは私のメイクをししたことがあります。素晴らしいスタートでしたが、終わり頃には『かなり汚く』なりました。とても楽しかったので、翌週もまたその翌週にも同じことをやりました。(私は4週間クラウンキャンプに滞在したので)。ジムの言葉を借りるなら「不器用で飲み込みが遅いから」 
- ピエット・ノーチェ-南アフリカ、プレトリア

1993年 イギリスからローリー・ベインとサッド(テッド・サドブラック)がスタッフとして初参加。クラウンキャンプは、5週間に延長されました。バリー・デチャントはアシスタント・ディレクターの任期を終えました。帰国のフライトで、ロープが緩んでぐちゃぐちゃになったローリー・ベインの荷物に対して航空会社は追加料金を請求しました。 彼はパフォーマンスのためのその荷物をを合衆国に捨てて行き、イギリスに帰国後新しいものをに取り換えました。

1994年 「教会におけるマジシャンの協会」国際部長デュアン・ラフリンがスタッフとして初参加。授業の新しいトラックシステムが導入されました。オットー・トラックと呼ばれるクラスは初心者向け、ルー・トラックと呼ばれるクラスは上級者向け、マーク・トラックはフレキシブルな選択に対応したクラスでした。(訳者注:それぞれアメリカで最も尊敬されるクラウンの名前が冠してあります。)1日の最後のセッションは、現場に即したコースで、それぞれウォークアラウンド、サーカス、伝道者、ケアリング、ステージなどについての授業を行いました。このコースはアレーの形をとりました。それぞれのコースの参加者は週の終わりに、そのコースの目的に合ったパフォーマンスをしました。 (例=ウォークアラウンドの受講者は地域のショッピングモールでパフォーマンス。) 閉会セッションで、ブレンダ・マーシャルがアメリカ・クラウンズ・インターナショナル(アメリカあるクラウンの団体)の代表に選出されました。

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1995年 クラウン伝道者強化ウィーク、15周年祝賀ウィーク、通常セッションのそれぞれ1週間のセッションが3週、ウィスコンシン大学ラクロス校でありました。15周年祝賀ウィークは、50名以上のスタッフメンバーがフューチャーされました。それに加えて、ジューン・デイリー・デイズ・フェスティバルとサーカス・ワールド・ミュージアムで、そのスタッフと参加者がパフォーマンスを繰り広げ、スタッフメンバーはウィッシュランド・ポニー・エクスプレスのチャリティーのために、一般に公開されるショー2ステージに出演しました。大量のパイにまみれた一般参加者は、世界最大のパイ投げに参加しようと、パイを投げまくりました。ラクロス消防署の協力で、参加者にはホースで水が浴びせられました。夜中のセッションは「グッド、バッド、きたない!」と呼ばれ、サーカスでのクラウン、バースデーパーティー、ビジネスについてのディスカッションと、クラウン名誉殿堂入りした4人、ゲン・リー、ジム・ホール、スティーブ・スミス、アーサー・ペドラー各氏の思い出話を聞きました。クーキー(ロイ・ブラウン)は15周年祝賀ウィークの参加が予定されていましたが、健康上の理由で参加することができませんでした。 この週のオープニング・セレモニーでスティーブ・スミスがロイ・ブラウンを称えました。また、ドロシー・ミラーとべディー・キャッシュはスタッフメンバーとしてスタートから毎年参加・貢献してきた功績を称えて表彰されました。 アイリーン・ドールは別なプロジェクトのためクラウンキャンプを去りました。ジャッキー・ラクレアがスタッフとして初参加。

初めてクラウンキャンプの1週をラクロス・キャンパスではないところで実施しました。セッションは、カナダのアルバータ州にあるメディシンハット・カレッジで開催されました。 プログラムは大成功で、学部長や他の現地スタッフメンバーから多大なサポートを受取けました。

1996年 リー・マラリーがアシスタント・ディレクターに就任。 週末の集中クラスが、通常の週の後に開催されました。授業は、アリーナ・イサクソンによるキャラクター開発、ケニー・アハーンによるフィジカル・コメディー、マーク・レンフロによるプロップの作り方、リチャード・スノーバーグによるケアリング・クラウンでした。 参加者は、この週末プログラムで徹底的に学ぶために2つまでのクラスを選ぶことが出来ました。 また、「地上最大のショー」を映画にも出演していたジャッキー・ラクレアがクラウンのスターについての説明のナレーションを入れながら、この映画を上映しました。ジャッキーはこの年のクラウンキャンプ・ロゴでもあります。

ジム・ホールの作品展がクラウンキャンプ・カナダにちなんでで開催されました。クラウンキャンプ・カナダに参加したい人のために、リチャード・スノーバーグにちなんだスカラシップが設置されました。スタッフ・オン・ ステージがはじまりました。毎朝、毎晩、それぞれのスタッフメンバーがデモンストレーションとしてショーをやるスタイルはここから始まったのです。

1997年 ノーラ・レイ、キャロル・ジョンソンがスタッフとして初参加。夜には、プロップ・ショップがオープンし、参加者は授業で習ったことを生かして自分の小道具を作ることができました。(訳者注:プロップ・ショップというのは小道具を作る部屋という意味で、小道具の店という意味ではありません。) ピエット・ノーチェがこれをケアしました。「あなたの顔」Iがスタート。(別料金になりますが、ジム・ホールがそれぞれの参加者のメイクアップをマンツーマ ンでデザインし、メイクの仕方をビデオで録画してくれるプログラムです) クラウンキャンプの第2週目は、参加者とスタッフはラクロス癌センターでパフォーマンスをしました。アーサー・ペドラーがメインステージにフューチャーされました。日本、イギリス、アメリカからのクラウンが、子供ステージでショ ーをやりました。週末の集中クラウスもまた開催されました。

1998年 別料金が発生しましたが、イギリスのノーラ・レイによるマイム・クラスが特別に設置されました。マイク・ベッドナレク、リック・ストラーブ、タミー・パリッシュがスタッフとして初参加。日本から来たクラウン劇団オープンセサミが正規の講座として、劇場公演をしました。 ジム・ホールは「赤い鼻の哲学者達シリーズ」にリー・マラリーを追加。この年のキャンプ・ロゴはベディー・キャッシュでした。

1999年 ボブ&テレサ・グレットンがスタッフとして初参加。キャンパスは工事が始まったので、スペースの都合上、ウイスコンシン大学ラクロス校では1週間のプログラムしか出来ませんでした。このため、この1週が終わるとインストラクターの数人が、その後に続くクラウンキャンプ・カナダのためにメディシンハット・カレッジに発ちました。 クラウンキャンプ・カナダでは、オープンセサミが、チャーリー・チャップリンを偲ぶイブニング・ショーを上演しました。 ドン・ブルーダがこの年のロゴを飾りました。

1999年のプログラムの終わった後、クラウンキャンプのディレクターのリチャード・スノーバーグは Clown Campウェブサイトの可能性を議論し始めました。

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2000年 ウイスコンシン大学ラクロス校でのクラウンキャンプで、最初の週はケアリング・クラウンと初心者のためのコースでした。第2週は通常通りのクラウンキャンプ。第3週めは20周年祝賀ウィークでした。日本からのクラウン劇団「オープンセサミ」がスタッフとして初参加。ロネ&ジージとペニーがパフォーマンスをし、またムーブメントクラスを教えました。 第2週と第3週にはさまれたある夜、クラウンキャンプと大学のスタッフはリチャード・スノーバーグの大学からの引退をともに祝いました。

20周年のお祝いに、オープンセサミがチャーリー・チャップリンを偲ぶ作品を上演しました。トリトンというもうひとつの団体がプールでの安全教室をかねたショーを大学のプールでやりました。また、この20周年では、毎日昼夜でテーマ・ショーが上演されました。このテーマ・ショーは、それぞれ「インターナショナル・クラウンズ」、「ミュージカル・クラウンズ」、「レディス・ナイト」、「サーカス・クラウンズ」でした。国際クラウン名誉殿堂入りしているクラウンたちと共に過ごす本当に楽しい時間でした。即興のショーでは、3チームがその辺にある物をその場で与えられ、それを使ったテーマ・ショーを繰り広げました。

祝賀イベントが多かったこの週は授業は朝のみでした。参加者は、多くても1日2つのレクチャーとジャムセッション(マジック、バルーン、紙 などの) に参加し、いままでのクラウンキャンプのビデオを見て過ごしました。面白かったのは、ノー・ミラー・メイク競争(鏡を使わずにメイクするゲーム)で、国際クラウン名誉殿堂入りしているクラウンたちが参加、ヒストリー・ゲーム、新婚のパロディー・ゲーム でした。 新婚ゲームの最中に、ドン・ブルーダが倒れ救急室に運ばれました。医師の診断は、軽い心臓発作でした。彼はそのまま入院し、この 祝賀ウィークの間に受けたバイパス手術は成功に終わりました。

カナダのメディシンハット・カレッジで最後のクラウンキャンプが実施されました。

食事をとる棟のホイットニーが改修工事のため、食事とキャンプストアはカートライト・センターに移 りました。

2001年 1週間のプログラムが4回実施され、その4回目の週は7月末になりました。最初の週は、 定員を限定して 参加者は午前と午後にひとつのワークショップを取りました。28人のインストラクターがこの年のパンフレットに掲載。 クラウンキャンプ・プログラムは、ウイスコンシン大学ラクロス校の教育研究所の傘下になりました。ホイットニー・センターの改修 工事は終わり、また、キャンプショップの運営と食事をがここでできるようになりました。クラウンキャンプのウェブサイトができた 最初の年でした。健康状態が危ぶまれたドン&ディー・ブルーダが無事に戻ってきました。ロネ&ジージがこの年のキャンプ・ロゴを飾りました。

2002年 この年、初めて4つ折タイプのクラウン・キャンプ・パンフレットを導入しました。 6/8~14と6/15~21のふたつのプログラム・ウィークが用意されました。2週目には学校の先生向けの特別プログラムがありました。そのテーマは 「楽しくやろう!学習効果をを最大限に!授業にユーモアを注入する方法」  時間の遅いプログラムでは、施設の都合上、設備のいくつかが使えなくなりました。

ロネ&ジージが日本から戻ってきました。また、マレーシアからサム・ティーがスタッフとして初参加。ジョン・ロッズがインストラクターとして初登場。ボ ニー・ドナルドソンとブルース・ジョンソンがこの年のロゴ。参加者全員がクラウンキャンプ期間中の約1000枚以上の写真をCD-ROMで受け取りました。

2003年 マーチ・ブロスがこの年のロゴでした。

2週のプログラムと、その直後にスコットランドのダルキースで1週間のインターナショナル・クラウン・サミットがスコットランドのダルキースで開催されました。この場所は1989年のサミットプログラムと同じ場所で、ディスカッションや授業、地域のイベントへの参加などをしました。クラウンは、エディンバラなどの小学校や子ども病院でパフォーマンスをしました。有名なブラックプールタワーサーカスを見るツアーも実施しました。 この欧ログラムに続いて18名がロンドンに飛びそこから2週間のクルーズに出発しました。このクルーズの間、参加者のキャシー・マクローレンとリンダ・ケリーはロシアのサンクトペテルブルグでケアリングクラウンとして病院を訪問しました。

2004年 ジョン・ブレア、パット・ジャネル、キャシー・マクローレン、メリー・ルー・スタシエック、パム・ムディーが新たにスタッフメンバーとして参加。2つのプログラムウィークが実施され、2週目のプログラムには地域のコミュニティーの安全教育のためのスペシャル枠が設置されました。 このプログラムは消防プログラムへ注意を向けるだけでなく、クラウンのスクールショーにも役立つものです。マイリック公園で特別に行われたの午後ショーは、地域の消防隊と救急隊および警察と連携して行われたプログラムです。
。この年のロゴはデビッド・ミッチェルのミスター・マジッシュがフューチャーされました。この年、2002年に配布したCD-Rの替わりにDVDを導入しました。5つのスライドショーを含む1000以上のイメージが、このマルチメディアDVDに含まれていました。

2004年の後半、クラウンキャンプははじめてアジアにプログラムを提供しました。授業とぱふぉまんすショーを1週間シンガポールでやりました。その後、スタッフはマレーシアに移動し、クアラルンプールでワークショップをやったり大きな病院を訪れたりしました。このプログラムにはいくつかの救急にかかわるスタッフにクラウンの技術の応用トレーニングも含まれていました。このプログラムは12月のはじめに実施されましたが、その直後に大津波が襲ったのでキャンプの参加者はそこで得た技術をすべてその救出活動に持って行きました。

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2005年 クラウンキャンプの25周年でした。5/28~6/3のこのプログラムに340人以上の人がラクロスに戻ってきました。40人以上の日本人参加者をはじめ、カナダ、南アフリカ、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、イギリス、そして38以上の違う週からの参加者が集まりました。スタッフメンバーは67人を越え、150以上のクラスが実施され、また、毎晩グラフ・メイン・ホールで素晴らしいショーもありました。

チャリティー・オークションで集まったのは過去最高の $13,452.90.、日本プログラムも合わせると、$236,963となりました。

この週、ドン・ブルーダを心臓発作が襲いました。 開胸手術を受けた彼はキャンププログラムのあともラクロスに残り、回復するまでSnowbergの家に滞在しました。

2週間後にとても成功したプログラムが日本の名古屋で実施されました。合計61人の参加者がアメリカから日本へ旅行し、多くのアジアから参加したクラウンと合流しました。 プレジャーBのKが、主催となり多くのスタッフとともプログラムをにサポートしました。3日間のクラスと、2日間のパフォーマンスや病院などの訪問。クラスは愛知博で実施されました。

この25周年のロゴは、リチャード・スノーバーグの「ジュニア」でした。

2006年 長年国際クラウン名誉殿堂で称えられているマーク・アンソニーがこの年のロゴでした。 2006年 6月3-9日の1週間で開催されたとても成功したプログラムでした。約175人の参加者が30を越える州から集まり、またマレーシア、カナダ、インド、日本から最終的に 27人が参加者しました。参加者は5つのコースからひとつを選んで学び、コースは、クラウンの基礎、ケアリングクラウン、中・上級クラウン、 自治体教育プログラム、教育者向けプログラムでした。コースのプログラムに加えて、毎日それぞれ選べる3つの授業がありました。

9月には、フロリダ州のキズミーでもクラウンキャンプを開催し90人が参加しました。3日間のRONE&Gigiによるフィジカル・コメディーのワークショップとケアリングクラウンのプログラムのあと、参加者はGive Kids World(難病のこどもを家族ごとディズニーランドに招待する有名な施設)を訪れました。

このあと、18人のクラウンとその家族がタンパに向けて出発し、1週間のカリビアン・クラウン・クルーズに参加しました。 日本のRONE& Gigi とキャシーもこれに参加し、船のメイン・ステージでパフォーマンス・ショーをしました。

2007年  1週間のプログラムに、国内30の州、カナダ、マレーシア、日本、メキシコとブラジルから181人が参加。40以上の新しいクラスが提供され、最低5つのクラスが、各授業の枠で同時進行しました。O.J. アンダーソンが、この年のロゴでした。

ルース・マデゾン主導のジュニア・ジョーイ・プログラムもありました。またこの年は、参加者がルーター・ホール(スイートにそれぞれ個人のシングルルームがあり、エレベータと空調付き)に宿泊した最初の年となります。

キャンプ・プログラムの終了後、ポストキャンプ・ワークショップも実施されました。その授業はとても魅力的な内容で、84人の参加者が出席しました。ワークショップのあった日は、そのあとミシシッピ川のラクロス・クィーンでのペダル・ホイール・lボートのディナークルーズを楽しみました。

Higher Education newspaper(教育関連の新聞)にクラウンキャンプを賞賛する記事が掲載されました。

2008年 ウィスコンシン大学ラクロス校でクラウンキャンプのプログラムが行われた最後の年でした。また、1986年に初参加したドン&ディー・ブルーダが参加できなかった年でもありました(ドンは2008年9月11日に亡くなりました)。

スタッフと参加者は、長い間このプログラムのインストラクターを務め、またいつも応援し続けてくれたドロシー・ミラーのためにスペシャルなイベントを行いました。それは、ドロシーのこれまでの人生を追うスライドショーや様々なトーク、またプレゼントを渡すなどするイベントで、キャンプの参加者と共に、心を打つ大きな思い出をつくることができました。ドロシーのキャラクターである「ブラバゲイル」が2008年度のキャンプのロゴになりました。

キャンプへの参加希望者が満員となり、宿舎であるルーターホールの宿泊リストには、200人以上が人が登録されました。30州以上の合衆国内から、またカナダ、日本、南アフリカ、バルバドス、フィリピン、オーストラリア、タイ、シンガポールの海外から参加者が集まりました。

I2008年7月に、大学はプログラムの継続のために施設を提供することが可能にされることができないと、急にClown Campに通告して来ました。大学側がキャンプを廃止にするというその理由は、責任問題がひとつあったのです。そのため今後プログラムを行うには、ラクロス校ではない他のキャンパスの施設を使用する必要がでてきました。クラウンキャンプ事務局は閉めなければならず、またスタッフの私物品や様々な備品の数々は、2つのキャンパスの保管場所と2つの事務所から移動せざるを得なくなったのでした。160以上の品々がこの年の8月に移動を余儀なくされました。大学の財産として残していかなければならなかったのは、コンピュータ、5台のプリンター、ファイリングキャビネット、貯蔵キャビネット、オフィス家具、ビデオ装置、デジタルカメラ、ディスプレイシステム、一輪車と事務用品でした。


2009年には、クラウンキャンプは2回実施されます。一回目はラクロスにあるビテルボ大学、二回目はフロリダのあるビレッジと呼ばれるの高齢者居住地区の中で行われます。今年は、クラウンを始めて60周年になるアーサー・ペドラーを祝し、彼の3つのキャラクターをデザインし、プログラムのロゴにしました。この英国出身のクラウンアーサーと、そのパートナーのアラン・ウィットニーは、2009年に開かれる2度のキャンプの両方とも参加します。

(2008年11月フロリダプログラムの中止が決まりました。)

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